2019/03/26
2018/12/06
「旅立ちの準備体操」
~できる限り楽に死を迎えるために~
私はお坊さんとして、いつもお檀家様にできるだけいい感じに死を迎えてほしいと願っている。いい感じに死を迎えるとは、納得して死ぬ。満足して死ぬ。いつ死んでも後悔はない。そういう心境。つまり、いつか訪れる死を一生の終わりで、ことさら辛いものや怖いものと悲観するのではなく、楽(※)に死を迎えてほしい。それが私の願いである。
とはいえ、その望みが叶う人はどのくらいいるだろうか。多くの人は、楽には死ねず鬱々とすると思う。なぜかといえば、日本人の二人に一人はガンになる時代。脳の疾患で半身不随になる人も、老いて足腰不自由になり、寝たきりになる人もいる。自分は健康でも、家族が病気になれば介護も必要。だから、ある朝起きたらポックリ死んでいた。いわゆるPPK、ピンピンコロリ。これは夢のまた夢の話。
我々の人生の特に後半は、死ぬその時まで、老いと病との格闘である。二五〇〇年前に、お釈迦様も人間の一生は四苦八苦と説いた。その苦は、どのように生まれるかといえば、自分の人生を自分の思い通りにコントロールしようとするから生まれる。自分の思いの理想と現実の差が苦しみの元というわけだ。
若い人でいえば、例えば、いい成績をとらなければ。いい仕事に就かなければ。いい相手と結婚したい(私のこと)。息子をいい大学に入れたい。いつも家族を含む自分の人生を、自分の思い通りにすることに精一杯。これが苦しみの元。お釈迦様のいう四苦八苦。
それは、お年寄りでも同じ。病気に縁がなかった人生から一転、病気になり、自分の身体が思い通りにならなくなり苦悩する。物忘れも、自分の行動がわからなくなる認知症が不安だから怖くて苦悩する。周囲に迷惑はかけたくないし、醜い姿は嫌。目を背けたくなる老いと病の現実。お釈迦様のいう生老病死の四苦。
勿論、この自分の思いや四苦八苦を苦痛に感じない人は、そのまま生き抜けばいい。しかし苦痛に感じたら、仏教には頼るだけの価値がある。この自分の思い通りにならない苦に、お釈迦様は、どう対応するよう勧めるのか。その思いにとらわれて苦しむのではなく「感じて、ゆるす」ことが大事と説く。自分の思いにこだわらず「感じて、ゆるす」。自分の思いに溺れるのではなく「感じて、ゆるす」。
「感じる」とは、思いにとらわれている自分を、心の中のもう一人の自分が、観察する態度。「ゆるす」は、もう一人の自分が、思い通りにならない自分を諦めている状態。諦めるは、仏教ではマイナスの意味でなく、明らかに見る、つまびらかに見る、という意味。つまり「感じて、ゆるす」は、その思いで頭がパンク、またはパニックする自分を、心の中のもう一人の自分が、「観察して諦める」、自分を達観している状態といえる。
これを体得する人は、人生に四苦八苦して鬱々とする様子が少ないようにみえる。穏やかで柔和。すべてを包み込み受け入れる空気感。お檀家様には沢山そういう方がいる。その意味では、私が一番「感じて、ゆるす」から遠い絶賛人生の闘争、四苦八苦状態ともいえる。でも私は、今のところ、それが苦痛ではない。だから徹底的に観察して諦めながら生きていく。
この「感じて、ゆるす」を体得したら最後の仕上げがある。それが「てばなす」。頭に浮かんでくる思いを「てばなす」。自分のこだわっている大事なモノを、「てばなす」。これは仏教で安楽の法門とよばれる。執着から離れる断捨離と同じ。手放せられれば自分が精神的に楽なのだ。これを突き詰めると、最後は自分自身を「てばなす」ことができる。これが仏の教えの要、無我の教え。
女優の樹木希林さんは、生老病死の四苦を「感じて、ゆるし、てばなす」を体現されたような言葉を残している。
自分が死ぬときに、最後まで使い果たしたこの命を神仏にお返しする心。自分自身の命を「てばなす」。私の憧れる悟りの境地。私も彼女のように、自分を使い切って死にたい。
この生死に関連して今秋、九死に一生を得た安田純平さんの言葉も紹介する。
私たちの多くは、平均寿命の八〇歳くらいまで生きられると、普段なんとなく思っている。しかし、当然だが、病や不慮の事故は、誰にでも襲いかかる。そんな災難に見舞われた時、本人も周囲もやりきれない気持ちになる。その七転八倒する思いを少しでも軽く治めるために、日々から自分の死について感じる。自分の死と向き合う時間が大切だと思う。この旅立ちの準備体操が、自分の人生を使い切るための第一歩となり、楽に死を迎えることに繋がっていくのではないだろうか。
師走に、お寺から「死」を主題にしたお便りをお送りして、万が一、気分を害された方がおられたら申し訳ありません。
今年の副住職の流行語大賞は、
「感じて、ゆるす」最後は「てばなす」
これが皆様の人生を充実させる一助になることをお祈り申し上げます。今年もお世話になりました。来年も宜しくお願い申し上げます。
なお「感じて、ゆるし、てばなせないもの」が、自分の人生で譲れないこだわりであり、価値ともいえます。それに気づくためにも、旅立ちの準備体操は有用。
※楽…心身に苦しみがなく安らかなこと。苦労するまでもなくたやすいこと。
2018年 曹流寺 暮れお便り 堀部遊民
流行語大賞の元ネタ
「感じて、ゆるす仏教」流行語大賞の元ネタ
尊敬するお二方の坐禅にまつわるぶっちゃけ対談本。
2018/11/04
8/30「魂のゆくえ」@愛知学院大学
南直哉老師の講演会があり、終了後、老師の控室に行き質問をしました。
[遊民]
はじめまして、普通に近所で僧侶をやっている者です。講演とは関係ない質問ですが、失礼します。日本の財政について。主に社会保障費が今後、増加して私たち国民、特に若者の負担がジワリジワリと増えて生活が厳しくなってくと思います。そのような時代において、私のような一介の僧侶が、この問題に対してできることはありますか?並びに老師は、この現状に悲観的か楽観的か、ご意見を頂きたいです。
[南老師]
最近、いろんな僧侶の研修で言うのは、貴方たち30歳位の人間は、60歳以上の人間の言うことを聞いたらダメということ。我々(60代の人間)は高度成長を暮してきた。つまり、人口と経済のパイが大きくなる中でやってきた。そういうところで成功も失敗もしてきた。(翻って)今は、はじめて人口と経済も数学的に収縮していく。つまり、そういう状況を我々は経験したことがない。だからこっから先の話は我々には根本的にアドヴァイスできる体験がないわけ。
そうすると30歳以下の人は、これから少子高齢化の大波をかぶる。それはもうトライ&エラーでやるしかない。トライ&エラーで大事なのは失敗した時にお互い助け合って、もう一回立ち上がること。トライ&エラーは結局どれだけ我慢できるかってこと。一発当てればいい。百不当の一当(一老)って道元禅師も言ってる。一当すればいい。その99の失敗を耐えられるかどうか。この覚悟と努力がいるわけですね。
で、宗門の将来は例え近所でとりあえず僧侶をやってる人であろうと…。君たちに懸ってるんだから、君たちが何とかするしかないわけですよ。だから僕は、今までの、求められれば経験は語るし、自分がそうだろうと思うことは言うが、基本的にこっから先の社会、というかここから先の行く末に関しては、僕の中から智慧が出るとは思ってないですよ。むしろトライ&エラーする君らの世代をバックアップする方が、あるいはその道を空けれる方が上手に道を譲る方が大事なことだろうと思う。
無理ですよ。わかんないもん。だって我々は人口がでかくなって、経済がでかくなるところをずっと走ってきた。で、90年代になって俺が永平寺の講師になって内講をもったときに必ずそうなるって言い続けていた。内講聞いてた奴は聞いてたはずだけどピンときてなかった。ところが、漸くここになってぴんとくるわけでしょ?
だから最近私は浄土真宗とか日蓮宗とか真言宗とか僧侶の研修とか青年会に呼ばれる。曹洞宗の研修の僕が喋ったテープが回ってると言う。それでなんで僕なんですか?と聞くと、こういう話をする人はうちにはいないからと言う。みんな頭の中で思ってる。このままじゃうまくいかないって。わかってる。
これから貴方たちは、僧侶と寺の生き残り戦争の中に入っているんだから。貴方たちが今やらなきゃいけないのは、まず自分の足元固めること。なんで坊さんやってるのか。なんで曹洞宗なのか。それほど坐禅や修行が必要だと本気で思ってるのか。何を人に向かって説くのか。足元固めるのが先です。永平寺とか総持寺とか修行道場万歳じゃなくて、その修行が自分にどんな意味があるのか。明確に言語化できないと、ついてこないですよ!相手はスマナサーラとか、あのレベルなんだから。
自分の中に教えと経本を自覚化しておかないと。対抗できないですよ。それがはっきりわかった上で、例えばボランティアとか社会活動。ボランティアは誰でもやるのに、なぜお坊さんがやるのか。はっきり言えなきゃダメ。やりゃいいってもんじゃないですよ。何をやってもいいが、それはなぜ曹洞宗僧侶としてやるのか。このことを自覚できない限りは、ここからは勝負にならないですよ。
という訳で、みんな待ってるからこの辺で!
暇があったら恐山に遊びにおいでYO!
[遊民]有難うございました(涙)
※この日以降、10日に1度更新される老師のブログが毎回「全部僕に対して書いてくれてんじゃん(勘違いな思い込み)」とビンビン心にキマります。以下、老師のブログのリンクを載せておきます。そして、なぜ、老師にこの質問をしたのかは、遊民 9月ツイート(リンク)に遡ります。
還暦の繰り言(リンク) / 2018年09月20日
内容要約:我が国の将来を考えるときの決定的な政治上の課題。すなわち、少子高齢化や財政赤字問題について。自らに痛みや負担を引き受ける覚悟をして、その覚悟を説き、痛みの具体的な割り振りを提案する、勇気ある政治家を、有権者たる我々は、選ぶ度量を示さなければならない。
「そのような、君の言う『原点回帰』が必須なのだろうか」
「日本においても、寺と家(住職と檀家)の関係から、僧侶と信者(指導者と個人)の関係へと、伝統教団の教学と体制のパラダイムを転換する必要があるなら(ぼくはあると思うが)、不可欠な作業だと思う」
次の世代と秋季祭(リンク) / 2018年10月10日
仏教が私に示したのは、「なぜ」と問うことを断念せよ、ということだった。「なぜ私は存在するのか」と問うな。「どのように存在するのか」を問え。「すべては無常である。なぜか」ではなく、「すべては無常である。ならば、どうする」と問い続けよ。それは無常であることに覚悟をきめながら、あえて自己であり続けるという困難を受け容れる意志である。
人間が「自己」という形式でしか存在し得ない業を背負うなら、いかなる自己であろうとするかを問い続け、「自己」を作り続けなければならない。ならば「自己」とは、偶然の怒濤をあえて渡ろうとして、数々の難破の果てに、ついに彼の岸に乗り上げた必然という名の小舟である。渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。ブッダの説くニルヴァーナを、私はそういうものだと思ってきた。
後半は茂木健一郎氏の『生命と偶有性』の書評。必&読!
お手紙ありがとうございます。(リンク) / 2016年10月20日
内容最初:「悟り」が何なのか教えて下さるという、ご親切なお手紙ありがとうございます。久方ぶりにこの種のお手紙を拝読いたしました。
[遊民]
はじめまして、普通に近所で僧侶をやっている者です。講演とは関係ない質問ですが、失礼します。日本の財政について。主に社会保障費が今後、増加して私たち国民、特に若者の負担がジワリジワリと増えて生活が厳しくなってくと思います。そのような時代において、私のような一介の僧侶が、この問題に対してできることはありますか?並びに老師は、この現状に悲観的か楽観的か、ご意見を頂きたいです。
[南老師]
最近、いろんな僧侶の研修で言うのは、貴方たち30歳位の人間は、60歳以上の人間の言うことを聞いたらダメということ。我々(60代の人間)は高度成長を暮してきた。つまり、人口と経済のパイが大きくなる中でやってきた。そういうところで成功も失敗もしてきた。(翻って)今は、はじめて人口と経済も数学的に収縮していく。つまり、そういう状況を我々は経験したことがない。だからこっから先の話は我々には根本的にアドヴァイスできる体験がないわけ。
そうすると30歳以下の人は、これから少子高齢化の大波をかぶる。それはもうトライ&エラーでやるしかない。トライ&エラーで大事なのは失敗した時にお互い助け合って、もう一回立ち上がること。トライ&エラーは結局どれだけ我慢できるかってこと。一発当てればいい。百不当の一当(一老)って道元禅師も言ってる。一当すればいい。その99の失敗を耐えられるかどうか。この覚悟と努力がいるわけですね。
で、宗門の将来は例え近所でとりあえず僧侶をやってる人であろうと…。君たちに懸ってるんだから、君たちが何とかするしかないわけですよ。だから僕は、今までの、求められれば経験は語るし、自分がそうだろうと思うことは言うが、基本的にこっから先の社会、というかここから先の行く末に関しては、僕の中から智慧が出るとは思ってないですよ。むしろトライ&エラーする君らの世代をバックアップする方が、あるいはその道を空けれる方が上手に道を譲る方が大事なことだろうと思う。
無理ですよ。わかんないもん。だって我々は人口がでかくなって、経済がでかくなるところをずっと走ってきた。で、90年代になって俺が永平寺の講師になって内講をもったときに必ずそうなるって言い続けていた。内講聞いてた奴は聞いてたはずだけどピンときてなかった。ところが、漸くここになってぴんとくるわけでしょ?
だから最近私は浄土真宗とか日蓮宗とか真言宗とか僧侶の研修とか青年会に呼ばれる。曹洞宗の研修の僕が喋ったテープが回ってると言う。それでなんで僕なんですか?と聞くと、こういう話をする人はうちにはいないからと言う。みんな頭の中で思ってる。このままじゃうまくいかないって。わかってる。
これから貴方たちは、僧侶と寺の生き残り戦争の中に入っているんだから。貴方たちが今やらなきゃいけないのは、まず自分の足元固めること。なんで坊さんやってるのか。なんで曹洞宗なのか。それほど坐禅や修行が必要だと本気で思ってるのか。何を人に向かって説くのか。足元固めるのが先です。永平寺とか総持寺とか修行道場万歳じゃなくて、その修行が自分にどんな意味があるのか。明確に言語化できないと、ついてこないですよ!相手はスマナサーラとか、あのレベルなんだから。
自分の中に教えと経本を自覚化しておかないと。対抗できないですよ。それがはっきりわかった上で、例えばボランティアとか社会活動。ボランティアは誰でもやるのに、なぜお坊さんがやるのか。はっきり言えなきゃダメ。やりゃいいってもんじゃないですよ。何をやってもいいが、それはなぜ曹洞宗僧侶としてやるのか。このことを自覚できない限りは、ここからは勝負にならないですよ。
という訳で、みんな待ってるからこの辺で!
暇があったら恐山に遊びにおいでYO!
[遊民]有難うございました(涙)
還暦の繰り言(リンク) / 2018年09月20日
内容要約:我が国の将来を考えるときの決定的な政治上の課題。すなわち、少子高齢化や財政赤字問題について。自らに痛みや負担を引き受ける覚悟をして、その覚悟を説き、痛みの具体的な割り振りを提案する、勇気ある政治家を、有権者たる我々は、選ぶ度量を示さなければならない。
「原点」への帰り方(リンク) / 2018年09月30日
内容要約「日本の伝統教団各宗派に属する僧侶、特に将来を担う若い世代には、外してはいけない三つの問いがある。まず第一に、自分自身にとって、教主ゴータマ・ブッダとはどのような存在なのか、必要な存在なのか、必要ならどう必要なのか。第二に、宗祖はどういう存在なのか、必要な存在なのか、必要ならどう必要なのか。第三に、教主の思想と宗祖の教えの関係をどう考えるのか。自分はどう整理しているのか」「そのような、君の言う『原点回帰』が必須なのだろうか」
「日本においても、寺と家(住職と檀家)の関係から、僧侶と信者(指導者と個人)の関係へと、伝統教団の教学と体制のパラダイムを転換する必要があるなら(ぼくはあると思うが)、不可欠な作業だと思う」
次の世代と秋季祭(リンク) / 2018年10月10日
内容要約ツイート:
「あるべきはずのニルヴァーナ」(リンク) / 2018年10月20日
前半要約:人は人であるかぎり、たとえやめたくても、「なぜ」と問うことをやめられない、ということである。我々は「なぜ、なぜと問うのか」とさえ問いうる。それこそが根源的な欲望、「無明」なのだ。仏教が私に示したのは、「なぜ」と問うことを断念せよ、ということだった。「なぜ私は存在するのか」と問うな。「どのように存在するのか」を問え。「すべては無常である。なぜか」ではなく、「すべては無常である。ならば、どうする」と問い続けよ。それは無常であることに覚悟をきめながら、あえて自己であり続けるという困難を受け容れる意志である。
人間が「自己」という形式でしか存在し得ない業を背負うなら、いかなる自己であろうとするかを問い続け、「自己」を作り続けなければならない。ならば「自己」とは、偶然の怒濤をあえて渡ろうとして、数々の難破の果てに、ついに彼の岸に乗り上げた必然という名の小舟である。渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。ブッダの説くニルヴァーナを、私はそういうものだと思ってきた。
後半は茂木健一郎氏の『生命と偶有性』の書評。必&読!
お手紙ありがとうございます。(リンク) / 2016年10月20日
内容最初:「悟り」が何なのか教えて下さるという、ご親切なお手紙ありがとうございます。久方ぶりにこの種のお手紙を拝読いたしました。
2018/09/29
私と仏教
曹洞宗の僧侶なのに坐禅に百%没頭できない後ろめたさに希望の光!道元禅師の坐禅を様々な対比で饒舌に説明。最終章では仏教は2500年間、失敗し続けているプロジェクト?森田真生の問いを口火に、サピ全や岡潔、ピカソの創造性の話まで展開。ニー仏節炸裂&完結!遍く坊主に届け!「感じて、ゆるす仏教!」の長文感想(敬称略)
「はじめに」
日本仏教の僧侶、寺の坊主は、その多くが世襲。政治家でいう二世三世議員。その中には立派な世襲僧侶もいれば、堕落したお坊ちゃまの僧侶もいる。私は、その後者にならないように約10年間ジタバタする僧侶。32歳。
そんな私は、日本の坐禅マスター藤田一照と仏教研究者の魚川祐司の共著「感じて、ゆるす仏教」を読み 感動した。この感動を多くの人(特に僧侶)と共有したいと思い感想文を書いた。しかし、気持ちが溢れすぎて、やたら前フリが長くなったので、「感じて、ゆるす仏教の感想」の2部だけでも読んでもらえたら嬉しい。1部は、私が堕落したお坊ちゃま僧侶になりたくなくて、ジタバタする姿が書いてあるだけ。なので、こちらは仏教がつまらないと思っている世襲和尚さんと共感できたら幸い。
目次
1部:感じて、ゆるす仏教の感想までの序章
「僧侶にとって坐禅は、つまらないままでいいのか?」
「私にとって仏教がつまらない理由」
「私にとって仏教が面白くなった転機」
2部:感じて、ゆるす仏教の感想
「道元禅師の坐禅を様々な対比で饒舌に説明」
「仏教は2500年間、失敗し続けているプロジェクト?森田真生の問いかけ」
1部:感じて、ゆるす仏教の感想までの序章
「僧侶にとって坐禅は、つまらないままでいいのか?」
私は永平寺でも総持寺でも坐禅修行をした。そんな坐禅の感想は、正直に言って、本当につまらなかった。だから修行を終えてからは、全然坐禅なんてやったことがない。それでも私は現在、曹洞宗の僧侶。世界でZEN(禅)といえば曹洞宗。なので人から「坐禅をやってみたい」と言われることも多い。そんなとき、自信満々で坐禅を勧められない自分が恥ずかしい。坐禅に興味をもってくれた人に申し訳ない気持ちにもなる。
しかし、ただ坐っているだけで何にも面白くないものは人に勧められない。私自身が無理矢理やって何かを得られたという実感もない。だから勧められないのも仕方がないといえばそれまで。ならば、どうして僧侶をやっているのか?理由は、先祖供養という職業として曹洞宗の僧侶を仕事にしているから。先祖供養と坐禅は、関係ない別物。だから坐禅は自信満々に勧められなくても、先祖供養をしっかり全うしていれば問題がない。食べていくのにも困らない。そんな事情もあり曹洞宗の僧侶をやめずに続けている。
じゃあ坐禅はそっちのけで、このまま先祖供養に邁進していればいいのか!というと、そういう訳にもいかない。それだと、例えば、モノグラム柄の商品が売ってないルイヴィトン。いや、牛肉の入ってない豚しゃぶ。つまり、当然あると楽しみにしていたお客さんはガッカリする。自分が世界の禅のお膝元の日本の曹洞宗の僧侶である以上、先祖供養だけでなく、すべからく坐禅にもプロフェッショナルでありたい。
「私にとって仏教がつまらない理由」
そんな風に思いながら、つまらない坐禅に自分なりに価値を見出そうと葛藤して約10年。やっと前向きに坐禅に取り組めるようになった。
この気持ちの変化に大いに役立った本を四冊紹介する。一冊目は藤田一照、山下良道の共著「アップデートする仏教」。2013年出版の本で、日本仏教界の現状を、とてもうまく説明し、更にそれをアップデートする必要性を活き活きと説く。この本は、僧侶として「どう生きればよいか」七転八倒する私の道しるべとなった。
前向きに坐禅に取り組むのに役立った本の二冊目を紹介する前に、この仏教に対しての私の思いも明らかにしておきたい。
そもそも坐禅が世界に広まるきっかけを作ったのは、2500年前に生まれた仏教の開祖、お釈迦様。またの名をブッダ。彼の説いた仏の教え、つまり仏教が坐禅の起源。以下、お釈迦様の教えを“仏教”という一言でまとめる。
この仏教に関しても、私は坐禅と同じようにマイナスな気持ちを抱いていた。学べども学べども、総じて、つまらない、面白くない。本当にクソ坊主だと呆れられてしまいそうだが、事実楽しくないのだから仕方がない。できるだけホリエモンを見習って本音で生きていきたい。では、どうして私にとって仏教はつまらないのか。それは、自分の人生に全く役に立つ気がしないから。
例えば、仏教を知るのに一番手っ取り早いのは、手塚治虫の漫画ブッダ。死ぬほど感動するし、巨匠が巨匠たる由縁を痛感できるので必読は必読。だが読後「自分の人生に仏教をどう活かそうか」と考えると悩んでしまう。強いて言えば“私利私欲に溺れた人は、いずれ苦しみに悶える。だから自分の欲望にはよくよく気をつけろ”といったことだろうか。
私が思うこの漫画、というか仏教の弱点は、その素晴らしい教えを現代人の日常生活に活かせるかというと、活かせそうにないと思えてしまうところ。実践が難しい。だから結局、私利私欲はよくない。いや、わかっちゃいるけどやめられない。そして私は同じ過ちを繰り返し反省しながら生きていく。そうやって人類は今日まで進化してきた。このバカの壁を破る程のインパクトに欠ける仏教。巨匠は凄いし、お釈迦様も凄い。しかし読者の人生に、仏教を取り入れなければ生死に関わるという切迫感に欠ける。キレイ事の域を出ない。これは私のただ欲張り過ぎな指摘と言えるが、結果的に仏教は自分の人生の毒にも薬にもならないボックスで眠る。
なぜそんなに仏教に批判的なのか。端的にいえば、快楽を求める傾向の強い人類に仏教が太刀打ちできないから。例えば今の時代、私たちはアクション映画に興奮し、良質な音楽に癒され、ディズニーランドで夢心地を買い、海外旅行で異世界に触れ、ゲームに没頭し、スポーツに熱狂する。これらは人間の五感にどれだけ刺激を与えるかが勝負の世界。私たちは、日夜労働に精を出す。それと引き換えに、この感動を味わい生活する。大多数の人間はそれに満足している。
これに逆行するのが仏教。仏教は興奮しないことを善とする価値観。そして最終的に、心が揺れない境地に究極の美を感じる。だから仏教は世の流れに逆らう教えと言われる。そんな教えに共感できるのは、どんな人だろう。例えば、なぜこの世界で私は労働をして生きているのか疑問を抱く人。または、この世界の王道に、満足できない人。そういう苦悩や葛藤を抱える人を受け入れる傾向をもち2500年仏教は伝承されてきた。理由はコレだけではないだろうけど、結果的に、現在、キリスト教やイスラム教と比べると仏教はマイノリティな宗教。
個人的雑感としては、この辺りに仏教の限界を感じて虚しいというか。この問題を真剣に考えるのも疲れるから虚無感を感じた体で惰性で先祖供養仏教の僧侶人生を過ごしているというか。例えば地球全体が大火事だとして、そんなときにジョウロで水をやっても結局は全焼するから無駄。いや実際に目の前に火事で苦しんでいる人がいたら精一杯消化するんだけど、周り見渡す限り全部火事では、絶望しながら水をかけるしかないというか。グチグチいっておらずに技術のない消防士は水のかけ方から鍛え直せって感じかもしれない。けれど、そういった無力感に苛まれると、ついつい漫画ブッダにも文句をつけ、仏教をつまらないと愚痴りたくなる。この中二病的な無知で愚かな自問自答に終止符を打つ。そのために、私にとって仏教がつまらなかった理由を書いた。
「私にとって仏教が面白くなった転機」
そこまで、つまらないのに僧侶をやっている理由は、先祖供養が生業だから(とはじめに書いた)。すると再び、では仏教がつまらないまま僧侶をやっていていいのか問題が浮上。それはポテトの売ってないマクドナルドだし、DVDが置いてないTUTAYAなので駄目(と、コレもはじめに書いた)。
そうやって、これまで悲観的に悶々としながら仏教と向き合ってきた。そんな私を救ってくれたのが、ニー仏こと魚川祐司の著「だから仏教は面白い!」と「仏教思想のゼロポイント:“悟り”とは何か」。私が前向きに坐禅するための基礎を作った本の二冊目と三冊目。
まず二冊目は、仏教がつまらないから、面白いに大転換する名著。私の読んだ仏教書の中でベスト1で読み易い。だから他の仏教書と比べて段違いに眠くならない。漫画ワンピースを読む勢いで読める。仏教入門編の金字塔!全体最適。
次の三冊目は一気に難易度が上がるので眠くなり挫折者続出だが、諦めず完読できればココロが心から躍る。日本のヒップホップ界のレジェンド宇多丸のラジオでお勧めされたり。哲学者の東浩紀も絶賛。
私の手塚ブッダと魚川著書に対しての感想の差異は、自分が当事者になれるか、なれないか。私は、手塚ブッダはお釈迦様と巨匠を神格化して思考停止してしまった。対して魚川著書には、今 生きている自分に、仏教で人生がもっと面白くなるぞ?さあ実践しようとリアルに誘われた。フィクションとノンフィクションの違いにも近い。魚川著書は、現代人が今生で仏教を学び坐禅を実践すれば、悟りというよくわからない境地に到達できると言語で強く言い切る。そんな夢物語を信じさせてくれる著者の筆力に感動。
その悟りの境地とは、しばしば150キロの球がイチローにはゆっくりみえたり、将棋の藤井四段やスケートの羽生結弦選手が最高のパフォーマンスを発揮したときの精神状態に例えられる。茂木健一郎はその状態を脳が最高に集中したフロー状態と呼ぶ(その先はゾーン)。そんな境地や状態は、私はスポーツや勝負の世界の超人のみが見られるものと思っていた。しかし、魚川祐司は仏教でもその世界が見られることを著書で饒舌に説いた。繰り返すが、これは私にとって本当に夢と希望に満ちた話だった。
ただ不安なのは、仏教の興奮しないことを善として、心が揺れない境地に美を感じる価値観と、私の精神状態はいささか矛盾する。世の流れに逆らう仏教なのに、世の流れと同じように興奮しながら、悟りを目指すことが可能なのか?甚だ怪しい。しかし、私は仏教を信じる以前に、人生楽しんだもん勝ち教の熱心な信者。だから思ったまま突き進むしかない。
私は恐らく死ぬまで僧侶を続ける。ならば、つまらないと思いながら坐禅や仏教と向き合うよりも、楽しく機嫌よく僧侶の仕事がしたい。その為には仏教にも坐禅にもプロでなければならない。これらの本に出会ったお陰で、その道がかなり明るくなった。そして何よりも、仏教で人生はもっと面白い。そう思えるようになり大満足(吾唯足知)。この三冊に私は救われた。
2部:感じて、ゆるす仏教の感想
「道元禅師の坐禅を様々な対比で饒舌に説明」私が前向きに坐禅に取り組むために役立った本の四冊目、藤田一照、魚川祐司の共著「感じて、ゆるす仏教」
前置きで長々と私にとって坐禅と仏教がつまらない理由を書いた。次に仏教は魚川著書のお陰で、面白いに転換したことを書いた。最後は「感じて、ゆるす仏教」を読破して、坐禅がつまらないから実践したい!に意識変革したことを書く。
その坐禅について、私のぶっちゃけな意見をおさらい。なぜ私にとって坐禅がつまらないのか。理由は単純。ただ坐っているだけで何の生産性もないものに時間を割く意味がわからない。眠い。足が痛い。辛い。我慢しても精神は強くならない。結果的に修行時代1年以上続けたが、何か得られたという実感もない。そんなものは人に勧められない。と、こんな具合。
しかし、そんな坐禅がつまらない、人間の役に立たないものなら、早晩なくなっているはず。なのに坐禅は、お釈迦様の生まれた時代から、ただ坐るだけなのに、消滅せずに今日まで2500年間受け継がれている。
そして21世紀、世界各地で多くの人が坐禅に取り組んでいる。今は亡きアップルの創業者スティーブ・ジョブズもその一人。グーグルの社員も10人に1人は、坐禅を現代風にアレンジしたマインドフルネスを実践。世界で800万部超えのサピエンス全史の著者ユヴァル・ノア・ハラリも坐禅とは種類が異なるが、瞑想を日に2時間実践する瞑想玄人。そんな世界のトレンドに、曹洞宗の僧侶が取り残されるわけにはいかない。坐禅をつまらないなんて言ってたら性根が腐ったクソ坊主のまま死んでしまう。そんな焦りにバッチリ応えてくれたのが「感じて、ゆるす仏教」。
曹洞宗の開祖、道元禅師の坐禅を「ただ坐れ」の圧倒的な説明不足&下手のまま片づけずに、様々な対比を駆使して説明。どういうことか触りだけ。例えば、男性はモテるために筋トレをする。女性は旅行するために仕事をする。子どもは勉強ができればいい大学に入れる。いい大学に入れれば親が喜ぶ。この思考回路を、魚川祐司は“未来の目的のために現在を質に入れる「取り引き」”という。この取り引きの優劣をひたすら競い合うのが世の中。坐禅もその多くは取り引きで実践される場合が多い。彼は、この文脈から一時的にであっても離れることが、本来の坐禅の醍醐味と語る。
この取り引きの坐禅と、取り引きではない坐禅の違いを、本書では、主に魚川祐司が藤田一照に問いかける形で説明がされている(下の画像に違いをざっくりまとめ)。この縦横無尽過ぎる問答に私はうっとりして、著者二人にときめいた。そして坐禅がしたいに心変わりをした。という訳で、取り引きから離れた坐禅を行えず葛藤する人に「感じて、ゆるす仏教」激おすすめ!
「仏教は2500年間、失敗し続けているプロジェクト?森田真生の問いかけ」
「感じて、ゆるす仏教」は、坐禅のススメだけで終わらない。最終章の対談は、数学者の森田真生の問いからはじまる。私はこの問いにも心を撃ち抜かれた。
「お坊さんたちは悟りを最終のゴールみたいに思っているようですけど、そうではなくて、悟りの基礎の基礎ぐらいは義務教育レベルでみんなものになっていなくては、仏教としては失敗なんじゃないですか。悟りの後を長い人生どう生きるかということを、もっと言わなきゃいけないのではないですか(P219)」
「ゴータマ・ブッダは私たちが悟りに至るための方法を説いていて、それが仏教の本義であるはずなのに、いまの仏教者たちが、『一生かけても悟れませんでした』みたいなことを平気で言っているのでは、仏教は二千五百年間、失敗し続けてきたということになりませんか。ゴータマ・ブッダの仏教は、人々を悟らせるためのものなのだから、それをいま私たちが実現できないのであれば、仏教は失敗し続けているプロジェクトということになってしまいますよ。(P220)」
1、日本仏教の僧侶は、亡くなった人を弔う。ご先祖様を供養することで日本人の役に立つ。2、日本仏教の僧侶は、日本の観光資源、歴史的な重要文化財のお寺を維持管理して日本の伝統の継承と繁栄に役に立つ。3、日本仏教の僧侶は、世界に向けて仏教や禅を広めて、啓蒙による人類全体の底上げに役に立つ。
様々な形で日本仏教の僧侶は社会の役に立つ。しかし、いつの時代も変わらないが、誰がどれだけ社会の役に立とうが問題がなくなることはない。今現在も、自殺や貧困、鬱に苦しむ社会人、いじめ、引きこもり、変質者の犯罪等、国内には数多の問題がある。これを世界にまで広げると目眩がする。
彼の問いかけは、そんな世界への大悲からくる、日本仏教界の僧侶に対する純粋で無垢な問題提起なのではないだろうか。これは若き頃の道元禅師の問い「人はもともと仏であるならば、どうして修行して悟りを求める必要があるのか?」とも、どこか似ている。
私は、悟りの基礎の基礎ぐらいは義務教育レベルでみんなものになっていて、悟りの後を長い人生どう生きるかということをみんなで考えられる世界を想像して、夢心地になった。だから、何らかの形でその世界の実現に尽力したい。という訳で、私を含む僧侶、また坐禅や仏教に没頭する人の中から、誰か一人でもいい。仏教でもっと面白い世界を創造するための宝くじを当てる日が来るのを楽しみしている。そのヒントが随所にあった「感じて、ゆるす仏教」必&読!
追記:ユヴァル・ノア・ハラリが、世界に向けて仏教を広めて、啓蒙による人類全体の底上げの役に立っている事実も日本仏教の僧侶は重く受け止めるべきだと思う。
※さっそく同級僧の本多清寛和尚と千葉悠道和尚、鍼灸師の櫻井祐亮君から、感想文に対する叱咤激励頂きました!涙!
2018/09/27
今日で三週間とニュースで報道みました。
2018/09/15
この夏 一番感動した8分間
ヤフーCSOの安宅和人氏の投げ込み!日本の一年間の収入の使い道のヤバさについて溢れすぎた思いを彼女に話しました(画像三枚)!
1:日本の一年間の収入(国家予算)の
使い道のヤバさをわかり易く説明した。
安宅和人氏の冒頭の投げ込み
下記6項目のヤバい事実をたった8分間で説明
(YouTubeリンク→ 動画開始23分から)
この投げ込みの書き起こし(ログミーリンク)がツイッタ―で軒並み数百~千RTされ、一気にバズる。
3:畑違いの人は高付加価値化で対応勧めた。
この投げ込みへの批判に対する安宅氏のアンサー記事(FB投稿リンク)。必読。このプロレスのお陰で、私の課題への理解もかなり深まった。
このヤバい事実 = 大きな課題に対して、政治とテクノロジーが取り組むべき解決案。夏期講習での各グループでの議論で安宅氏が示す(YouTubeリンク→番組16分45秒から)。以下、ざっくりまとめ。
4:“民意を変えること”の重要性も説いた。
安宅氏は、別インタビュー(リンク)でこうも語る。
「このことを誰も分かってないのかといえば、そうではない。財務省も主計および幹部の方々は理解していますし、日銀も分かっています。それでも動かないこと自体が、問題です。今の法律に縛られた彼らでは動けないのです。民意を変えるしかないのです。(中略)。僕らは、後に続く世代のためにどんな未来を残したいのか。次世代に対して責任を感じる大人たちの「意志」が、問われているのだと思います。」
以上
安宅氏が投げ込んだヤバい事実を忘れない為のまとめ。ワンピースの結末も進撃の巨人の結末も気になる。だけど、やっぱり日本の行く末が一番気になる。この覚書を、10年後に照らし合わせるのが不安であり楽しみ。これからどんな未来がやってくるのか。ホモ・サピエンスからホモ・デウス、人間は神になるのか。できるだけ長くみていたい。そんな好奇心でまだまだ生きていける。
鬱々がおさまらないときは心に暗示をかける。
“深刻にならず真剣であれば大丈夫”と無心で唱える。未来憂う気持ちぐっと堪え案ずるよりマインドフルネス。できることは限られている、時間がみんなに平等に流れてる。苦しんでる人らに手を差しのべる、憐れみでまわす家族の哲学。
☆毎度僕の不安解消にお付き合い感謝!
加納慈孝和尚、千葉悠道和尚、志水夫妻、多賀夫妻
※なお 上の文章に登場した彼女は架空の人物
8月末 名古屋に講演に来た南直哉老師に、このヤバい事実に関して質問をすると、真摯な解答の〆に「暇があれば恐山に遊びにおいでよ!事前に連絡してね」と一言。困ったらいつでも頼ってこい!という大悲のやさしさに包まれながら、その日は興奮して眠れませんでした。
9/20、南老師、ブログで、我が国の将来を考えるときの政治上の課題について語っています(リンク)。
※南直哉老師:曹洞宗の禅僧。福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。永平寺20年修行。
使い道のヤバさをわかり易く説明した。
安宅和人氏の冒頭の投げ込み
下記6項目のヤバい事実をたった8分間で説明
(YouTubeリンク→ 動画開始23分から)
この投げ込みの書き起こし(ログミーリンク)がツイッタ―で軒並み数百~千RTされ、一気にバズる。
3:畑違いの人は高付加価値化で対応勧めた。
この投げ込みへの批判に対する安宅氏のアンサー記事(FB投稿リンク)。必読。このプロレスのお陰で、私の課題への理解もかなり深まった。
2:政治とテクノロジーの力で解決案を示した。
4:“民意を変えること”の重要性も説いた。
安宅氏は、別インタビュー(リンク)でこうも語る。
「このことを誰も分かってないのかといえば、そうではない。財務省も主計および幹部の方々は理解していますし、日銀も分かっています。それでも動かないこと自体が、問題です。今の法律に縛られた彼らでは動けないのです。民意を変えるしかないのです。(中略)。僕らは、後に続く世代のためにどんな未来を残したいのか。次世代に対して責任を感じる大人たちの「意志」が、問われているのだと思います。」
以上
安宅氏が投げ込んだヤバい事実を忘れない為のまとめ。ワンピースの結末も進撃の巨人の結末も気になる。だけど、やっぱり日本の行く末が一番気になる。この覚書を、10年後に照らし合わせるのが不安であり楽しみ。これからどんな未来がやってくるのか。ホモ・サピエンスからホモ・デウス、人間は神になるのか。できるだけ長くみていたい。そんな好奇心でまだまだ生きていける。
鬱々がおさまらないときは心に暗示をかける。
“深刻にならず真剣であれば大丈夫”と無心で唱える。未来憂う気持ちぐっと堪え案ずるよりマインドフルネス。できることは限られている、時間がみんなに平等に流れてる。苦しんでる人らに手を差しのべる、憐れみでまわす家族の哲学。
加納慈孝和尚、千葉悠道和尚、志水夫妻、多賀夫妻
※なお 上の文章に登場した彼女は架空の人物
追記1
このヤバい事実をベースに自分を含む日本仏教の僧侶は、一体何を考えて行動すべきか。勿論、坊主でない知人とも何かできることはないのか。雑談するのが至福。
8月末 名古屋に講演に来た南直哉老師に、このヤバい事実に関して質問をすると、真摯な解答の〆に「暇があれば恐山に遊びにおいでよ!事前に連絡してね」と一言。困ったらいつでも頼ってこい!という大悲のやさしさに包まれながら、その日は興奮して眠れませんでした。
9/20、南老師、ブログで、我が国の将来を考えるときの政治上の課題について語っています(リンク)。
※南直哉老師:曹洞宗の禅僧。福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。永平寺20年修行。
2018/08/01
□死にたいまま生きることを諦める
「もう早く死にたい」親父が、くも膜下出血の後遺症で小室哲哉さんの妻ケーコさんと同じ高次脳機能障害(軽度)になり、私生活でワガママな言動が増えてから、その世話に疲れたときの母の口癖です。
私も自分の人生に息詰ると「死んだ方が楽だな~」と思うことがあります。
私たちは、なぜ死にたくなるのでしょう。それは生きているのが辛いから。または面倒、だから時折 生きることをやめたくなります。と、そうはいっても本当に途中でやめるわけにはいかないので、みんな何とか生きています。
私たちは、自分の思い通りにならないことが重り、鬱憤(ストレス)が溜まると愚痴や弱音を吐かずにはいられません。これは私たち人間の癖です。決して自分がダメな人間だからではなく。程度の差はあれ、誰だって、不安もあれば、イライラもします。みんな一緒です。私たちは、このモヤモヤをどうすればよいのか。今日は私の心の中にいるお釈迦様(以下仏)に尋ねてみます。
遊民(以下遊)「母親がもう早く死にたいと言います。どうすればいいでしょう?」
仏「人生は幸せで楽しいことばかりではない。人生とは苦である。例えば、年老いて身体と頭が不自由になる苦。病気になる苦。欲しいものが手に入らない苦。夢が叶わない苦。嫌いな人と会う苦。人生とは、そんな自分の思い通りにならない苦の連続である」
遊「その人生苦、どうすればいいでしょう」
仏「そういう思い通りにならない苦の状況や、自分の思いに振り回されない自分になればいい。つまり、君の母親でいえば、父親に振り回されなければ問題解決」
遊「ど、どうやって?」
仏「まず母親は、なぜ死にたいのか。父親の世話をするが、父親がワガママをする。これが母親の思い通りにならない苦。だから世話をしているとストレスが溜まる。それが頂点に達すると、死にたいと弱音を吐く。つまりストレスが溜まらなければ、死にたいと弱音を吐かずに済む。そのためにはどうすればよいか。父親が自分勝手な行動を慎めばよいが、いい大人、ましてや障害をもつ六五歳男性にそんなことができるだろうか。無理である。この人間の癖というか、傾向性を変えるのはとても難しい。アル中や麻薬中毒の人が通院したり、太った人がライザップに頼るように、まずは本人の意思が伴わなければ話にならない。だが、障害が原因で父親にその意思はない。となると自動的に意思のある母親が変わるしかない。ストレスを溜めないために母親にできること。例えば父親の世話をやめる。これができれば母親は楽になる」
遊「そんな無茶な。世話焼きの優しい母は、困っている父を放っておけません。世話をやめるなんて無理です」
仏「では、死にたいと思いながら世話をするしかない」
遊「そんなセッショウな!」
仏「人生は苦であり思い通りにならないことだらけ」
遊「それが生きるってことなのでしょうか」
仏「君はどうしたいんだ」
遊「母に死にたいと言ってほしくありません」
仏「じゃあ君が父親の世話をすればいい」
遊「忙しいから無理です」
仏「それなら諦めて母親が死にたいと思いながら父親の世話をするしかない」
遊「・・・」
仏「父親の世話も代われないし、母親に死にたいとも言って欲しくない。それは君、ワガママじゃないか。それじゃあ父親と一緒だ。君の苦しみの原因は、その欲張りな心だ。潔く諦めなさい」
遊「なんでも諦めず頑張れと学校で教わったので、諦められません」
仏「諦めるというのはギブアップすることではない。明らかにみるということだ。君の悩みと両親の状況を、今明らかにみた。それで母親の死にたい気持ちを消すのは無理だとわかった。どうして無理だとわかったのに、どうにかしようとする?時間の無駄。それは、でないパチンコの台にお金を突っ込んで借金する人と何も変わらない。明らかにみて無理だとわかったのだから、諦めて別の方法を考えなければ、君は永遠に無駄に苦しみ、人生を浪費するだけ。君の苦しみの原因は、父親にあるのではない。君のその欲張りな心にこそある」
□自分の癖に気づく修行
遊「私の望みが無理ゲー(その苛酷な条件、設定の為クリアが非常に困難なゲームに対して言われる言葉)だとわかりました。しかし、だからといって簡単に諦められません。やはり母親に死にたいと言って欲しくない。でも私も父親の世話を代われない。ダメなのはこの欲張りな心。わかっちゃいるけどやめられない。だから苦しむ。この堂々巡り…。なんだか僕まで死にたくなってきました」
仏「人生は苦であり思い通りにならないことだらけ。怠らず修行しなさい。一般的に修行というと、厳しい永平寺で坐禅をしたり、山奥で滝にうたれたり、一日五〇キロ以上走る千日回峰行をイメージする。しかし、修行はそれだけではない。人間とはどんな生物か学ぶこと。そしてその傾向を知ること。それができたら、その傾向と自分自身を照らし合わせ自分の癖を知る。これも仏の修行。君は修行をして自分の心を明らかにみて、欲張りな心に気づいた。これは修行の賜物。喜ばしいこと」
遊「欲張りな心と気づいただけで修行?でも結局欲張りな心がやめられないまま生きる。それがなぜ修行?いやそれが苦しいと僕は言っていて、何も解決していない」
仏「欲張りな心に振り回されて、先の人生が本当に死ぬまで苦しくならないための予防措置に坐禅やマインドフルネス、瞑想の実践修行がある。そんなに苦しいのなら、一度母親と共に坐禅でもしたらどうだ?そこで、その欲張りな心と今一度向き合い、明らめ、いかに付き合うのがよいか考えるとよい」
遊「大変そう・・・」
仏「人生は苦であり思い通りにならないことだらけ。怠らず修行しなさい」
遊「人生が修行だと覚悟して、死にたいまま苦しくても生きていけってことか。泣」
□骨折り損のくたびれ儲け
遊「お母さん、お釈迦様から助言をもらったよ。坐禅をすれば死にたい気分が落ち着くかも。一緒に坐禅をしよう」
母「いや私は、TⅤで世界の果てまでイッテQ!を見て笑ったり、趣味の裁縫をしたり、インターネットで同じ境遇の友達と愚痴を言い合ってストレスを発散している。だから、坐禅しなくても大丈夫」
遊「ええ!」
母「真剣に考えてくれたのに、ごめんね。そこまで深刻じゃないの。だって一か月に一度くらいでしょ?私が死にたいなんて言うの。残りの二九日間は生きたいと思って生きてる。というよりも、そんなこと考える暇もなく日々家事・掃除・お寺の仕事で精一杯」
遊「せっかくお釈迦様に相談したのに…」
母「いやまあでも有難う。あなたのその心意気だけで気分が晴れるわ。死にたい日が一か月に十五日超えたら、お釈迦様に相談して坐禅する。あとこれからは、死にたいって言うのは 諦めるわ」
□死にたい まま 生きることを諦める。続く?
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このお話は、脳の病気の後遺症で高次脳機能障害になった親を介護する方を励ましたい思いで書きました(2018年 曹流寺 お檀家様へのお盆のお便り)。深刻風な題名と書き出しですが、書き終えたらコメディ説法になったので、その方を励ますことができているかは微妙…。
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推敲に素晴らしいアドヴァイスをくれた友人僧侶!
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