先日、十二年ぶりに高校時代の恩師とお話する機会があり、質問致しました。
私 「人は、なぜ学ぶのでしょうか?」
恩師 「何のために学ぶかを学ぶために学ぶんだ。」
わかりにくかったので、返答を濁してしまいました。
人は学ばなければ自分が知らぬことが山程あることを知らぬまま生きる。無知は愚かさの始まりと仏教から教わった私は、時間の許す限り堪うる限りの力を尽くし学んでいきます。と、これを恩師への返答と代えさせて頂きます。
私はよく、「これは何の為にやるんだ?」「何の為に?」と、自問自答します。
そんなある時、中国 唐の時代の南岳懐譲(なんがくえじょう)という師匠と、その弟子 馬祖道一(ばそどういつ)の禅問答に出会いました。
昼夜、坐禅に熱中する弟子に対して、
師匠 「なぜ、おまえは そんなに坐禅をする?」
弟子 「仏になる為に坐禅をしています。」
それを聞いた師匠は、突然、傍にあった瓦を磨き始めたそうです。
意味がわからなかった弟子 「どうして瓦を磨くのですか?」
師匠 「瓦を磨いて鏡にするのだ」
すかさず弟子 「いくら瓦を磨いても鏡にはなりませんよ」
師匠 「じゃあ凡夫が坐禅したら、仏になれるのだろうか」
弟子は、この問答でハッと悟ったとか。
仏になるために、凡夫がいくら坐禅しても、仏になることはできない。凡夫だと思っていた自分が、じつはすでに仏なんだと目覚めることで、仏としての坐禅ができる。哲学者 ひろさちや氏は、このような解釈をしました。
曹洞宗 開祖 道元禅師は、ひたすら坐禅をする「只管打坐の禅」、これが最高の修行と伝えました。何の為に坐るのか、身心脱落する為に坐る。これだけでは殆ど意味がわかりませんが、意味を汲み取ろうと修行を続けるうちに、わかったような気がしたり、しなかったり。これも先の禅問答と同じく雲をつかむような話です。「身心脱落」参考記事:http://shuchi.php.co.jp/article/1535?
こんな仏道を歩んだ祖師 方々の話を聞いているからでしょうか。ただ学ぶために学ぶ、そんな心境が理想だと信じて学ぶ毎日です。恩師の言った「何のために学ぶかを学ぶために学ぶんだ。」 これも仏道に通ずる何かを感じます。
「誰かに喜んでもらう為に学んだことを役立たせる」とか、本当は、単純に「ただ学ぶために学べばいい」はずが、ついイロケを出して複雑にしてしまいがち。これはよくある自業自得。だから出来る限り目前の与えられた役割に全身全霊 集中できる心身を作れるよう精進の日々。
供養するときは供養に集中、食事するときは食事に集中、寝るときは睡眠に集中。この考え方は、道元禅師から教わったんだったか。忘れましたが、私の心は、いつまで経っても結局、五里霧の中。そうだ、九月のお彼岸が過ぎれば、読書の季節が訪れるので「学びの詞」でもしたためよう!なんて物思いに耽った遅いお盆休みでした。先生 有難うございました!
高校時代、五月蝿い先生を恩師と仰ぐように焚き付けたのは、同級生のスズキユウでした。
十二年後、再び、私の学ぶ心を焚き付ける機会を設けてくれたのは、やっぱり同じ男でした。
持つべきは愛すべき友。合掌!
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