2017/04/06




<仏教3.0>を哲学する 和尚さん、瞑想&マインドフルネスファン、必読ですね。面白かった、滅茶苦茶。前作アップデートする仏教(本)を読んでないと何いってるかわからない部分が多くて楽しみは半減かもしれませんが。 永井さんのいう<私>、山下さんのいう「青空」、般若心経の「色即是空(広く大乗仏教)」。この辺りのことを、言語で、内山興正老師の話を引用しながら語ってくれてドーパミン駄々漏れでした。その内容は、まあわかるようでわからないんだけれども、わかるようにならなければ坐禅(瞑想)してても割と苦しい場合も多いというか。 私が坐禅とか仏教と向き合っているときに感じるモヤモヤ、その痒い所に手が届きそうで、まあ結局届かないんだけれども、届きそうな感覚を味わうところにミゾミゾしたとでもいうか。うまく言えませんが、お勧めです! ここからは感想をまとめていたら、自分が話す仏教トークに脱線して、ダラダラと書いてしまいました。 ------------ □私が普段する仏教のお話(ざっくりver) 私たちの人生は、煩悩に振り回されているから生涯四苦八苦なんですね!その煩悩というのは三つの毒、貪り(むさぼり)と怒り(憎しみ)と無知(愚かさ)と言われます。これに一生振り回されて溺れているのが私たちの人生。貪りというのは、アレもコレ欲しい、あー&こーしたい、あー&こーなりたいという感情。そしてそれが思い通りにいかないと、怒ったり憎しみを抱いたりする感情。私たちには誰しも、そういった本能重視の感情で生活している面がありますが。この自分の意志に振り回され続ける人生は苦しくないですか?と提案するのが仏教です。そしてこれに共感した場合「じゃあ一緒に修行(例えば瞑想)して苦しくない境地{悟り・涅槃(ニルヴァーナ)・解脱}を目指しませんか?」となります。 一般の方にとっての現代の日本の仏教は、これではなくて、身内が亡くなったときにお坊さんを呼び出す葬式仏教がマジョリティですが。この亡くなった人をあの世へ送る仏教って、そもそも何?みたいな疑問を持った方が出会うのが、先の、学ぶ仏教です。仏教は2500年も歴史があるもんだから本当にいろんなジャンルがあります。で、その学ぶ仏教の「人生は四苦八苦だから修行して清らかな世界(悟り…etc)を目指しましょう」という誘いに対して「いや人生苦しくないです。むしろ楽しくて気持ちいいです」という人は多いわけですが。そういう人には、中々この教えは心に響きません。私自身5年前くらいまではその一人で、仏教はなぜこんなにつまらないことばかりいうんだと本気で思っていました。そんな教えが現世否定的だからという訳ではないですが、仏教の熱心な活動者&ファンは世界70億人の人口の10分の1以下ともいわれます(諸説には5億人)。要するに世界的にみると仏教はマイノリティな宗教です。 そして、学ぶ仏教の話の続きですが、その私たちの煩悩、または本能、自分の意志。これらは使い道をを間違えると罪になります。例えば昨年から社会で活躍する多くの人の不倫や浮気が取り沙汰されますが。これは仏教的には、もっともっと欲しがる貪りの煩悩を抑えられなかったということです。別にわざわざ仏教的に言わなくても「あぁ彼(彼女)は色欲が抑えられなかったんだな」と誰でもわかる、当たり前の話です。 ここで言いたいのは、煩悩の強い人が自分の煩悩の使い道を間違えると罪になるということです。しかし、反面、このもっと欲しい煩悩が強いから、社会に感動や刺激を与えられる仕事ができるともいえます。仏教的には、社会で上手く罪を犯さず世渡りする時には、この煩悩の使い道に気をつけましょう、バランスが大事です。ということになります。 で、うまく罪を犯さず穏やかな生活を送っている人は、どうしているかというと。本能のまま自由を謳歌して、煩悩マックスで罪を犯す訳にもいかないので、適度に我慢をして、要は理性を保ち、友人と家族と仕事先でうまくやっているわけです。仏教の勘所を知らぬ間に心得ているといえます。 仏教のマイルドな説法では、これを簡単にまとめると「少欲知足が一番」といいます。要するに、このくらいでいいじゃん、これ以上望んだら欲張りだから、ここら(小さな欲)でよし(足るを知る)にしておこうということです。それが幸せ(仏教的)だよ!みたいな感じです。 こういう人(少欲知足な人)が多い限りにおいては、社会の平穏は保たれます。しかし不倫や浮気をする人が社会の半数以上を占めると、恐らく怒りや憎しみで殺伐とした雰囲気になります。たまたま不倫や浮気で例えましたが、これは罪といわれること、すべてに通じます(この話は機会があればまたします)。罪を犯す人が増えると、社会がギスギスします。 そこで更に飛躍した話も加えると「自分の欲を満たすことばかり考えていると喧嘩になるよ」というのが仏教の立場です。「世界全体が他人のことを思いやることなんて夢物語だから、世界全体が平和になることはないかもだけれども、それが叶わない限りにおいて個人の幸福はありえない」と言い切ったのが宮沢賢治です(ちょっと台詞アレンジしてますが)。この個人とは宮沢賢治の考える個人であり、世界全体の個人は宮沢賢治の思う個人とは大分掛け離れている気もしますが…。ともあれ、仏教に縁のある私たちは、自分だけでない誰かを思いやれる人生を歩んでいきたいですね。チャンチャン。 ------------ と、大体いつもこんな感じで仏教の話をしています。で、どうしてこんな話をしたかというと、本(<仏教3.0>を哲学する)の感想を私なりにまとめていて…。今話した仏教トークの、更に違うステージ、違う次元の話(本の内容)に、がっつりココロオドッタからでした。 それもざっくりいうと、私の今の仏教の話は、やっぱり割と小手先という感じなんです。もっと、生命の実相というか、根本的なところに迫っていかないと、厳しい言い方をすれば、人を導くなんて毛頭無理というか。「仏教ってこんな感じなんですよ~!?」と薄っぺらく説明はできるけれども、「いざ」というときには頼りにならないというか。 私の尊敬する音楽プロデューサーMITSU氏の言葉を借りれば、「どこかの誰かみたいに不安を煽って責任もなく行き先もわからないまま扇動するような、卑しい人間には絶対にならないんだぜ。」要するにそういうことですね。 毎度、自分の至らない点に汗汗してしまいますが、自虐ばかりしていても仕方ないので、最後に藤田さんの言葉で〆れば「この先も自分にできる形で、現代に生きるこのわたしにとって本当に意味のある仏教とはどのようなものかを模索し続けていくだけだ」といったところでしょうか。 お勧めです!「<仏教3.0>を哲学する」 ※今年は愛知県の曹洞宗僧侶現職研修、講師が藤田一照さん(未確定)という噂を耳にしました。今から楽しみです。合掌

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